死にたいって言う権利は誰にでもある​─────

「死にたい」、この言葉は、様々な恣意性が露出した末の突き詰められた孤独だと思う。

 

 

努力しても報われない今の状態は、はっきり言って微塵も楽しくない。
「まだ若いからなんとかなるよ」と言われても、今でさえ鬱でボロボロの状態なのに、これから歳をとってさらに状況が難しくなって健康面や金の問題、不安も増えて両親も祖父母も姉も私の傍からいなくなるのかと思うと目の前が真っ暗になる。

 

別に今すぐに死を選ぶわけではない。

自殺を漠然と検討することはあっても、くだらなさを感じるので自殺しないが、しかし究極的にくだらないことが面白くないわけないのだ!

 

そこで、私は、自身他者様々な人間が発する全ての「死にたい」という言葉を改めて尊重しようと思う。

物事を表す時に「死にたい」より合っている言葉は恐らく沢山ある。敢えてそれが表面化される事態は、発言する主体が言葉(=死にたい)に操られることを拒否して言葉を操ろうとする過酷な挑戦だと考えたい。

今生に、世界に、私に、えふゆーしーけー。