死にたいって言う権利は誰にでもある​─────

「死にたい」、この言葉は、様々な恣意性が露出した末の突き詰められた孤独だと思う。

 

 

努力しても報われない今の状態は、はっきり言って微塵も楽しくない。
「まだ若いからなんとかなるよ」と言われても、今でさえ鬱でボロボロの状態なのに、これから歳をとってさらに状況が難しくなって健康面や金の問題、不安も増えて両親も祖父母も姉も私の傍からいなくなるのかと思うと目の前が真っ暗になる。

 

別に今すぐに死を選ぶわけではない。

自殺を漠然と検討することはあっても、くだらなさを感じるので自殺しないが、しかし究極的にくだらないことが面白くないわけないのだ!

 

そこで、私は、自身他者様々な人間が発する全ての「死にたい」という言葉を改めて尊重しようと思う。

物事を表す時に「死にたい」より合っている言葉は恐らく沢山ある。敢えてそれが表面化される事態は、発言する主体が言葉(=死にたい)に操られることを拒否して言葉を操ろうとする過酷な挑戦だと考えたい。

今生に、世界に、私に、えふゆーしーけー。

 

 

苦手

私は数学と日記が苦手だった。

 数学はやろうと思えばできる、自分はやっていないだけだとずっと自分に言い聞かせていたのだが、その内そういうやる気も曖昧になったという感じだ。色々と本を読むうちにいま改めて興味を持ち始めており、新品同然の中学数学の本を取り出したりしているのだけれども、とにかく中高に在籍していた頃は数学を触れることが苦痛だった。

 一番に思い出せる事として、中学数学の証明が最も苦痛だった。

 今となってはその重要も必要も理解しているのだけれども、恐らく当時は、いってしまえば証明が作業的に感じられ、「私」が 「これ」 を 「書く」という事態に対して途轍もない億劫さを覚えていたのだと思う。

 なんて話だ。

 

日記は挑戦して挫折し放置する、という一連の動作を繰り返している。もはや日記の挫折が、日記をつける行為と為りそうなくらいに。

完成させた文を、日が変わる23:59分までに記入しなければならないという義務感と強迫観念を抱いてしまう。どうも書いてるときに、数学の証明問題の回答を書いてるみたいだと感じてしまうのだろう。自分が自分に見せる表現としてなんかどうでもいいなと思ってしまう。

「私がどうしようもないのは、私が日記にどういう《価値》があるのか決定できないのは、日記の文学的存在規定が私の指からこぼれ落ちるからである。」ロラン・バルト『テクストの出口』

……また、時間がある日に挑戦してみようかな。

 

 

生きるのが困難!

時間の流れが全体的にかなり遅く、しかし瞬間的にかなり早い。これはどういうことだろうか。気付くともう、こんな時間。だけどまだ、一日しか経ってない……

そんな気分でここ最近毎日を過ごしているが、無為に過ごしたとか、そういう後悔はないので充実しているのかもしれない。不思議だ。私はワタシ(=I、愛、相、哀?)がわからない。私のために費やされる予定だった資源、私のために私を待っていた資源、私のために到来する資源、そういうものはない。無為とか無駄とか一切わからない。ついでに効率もわからない。

 

ここ最近出費を見直したところ、金銭的余裕が増えたので、毎週のように秋葉原に足を運んでエロゲーを買い、寝る暇も惜しんで物語を読んで過ごしています。毎日毎日来る日も来る日もエロゲーエロゲーエロゲーエロゲー、心はブルジョワ、立場はプロレタリア、生きるのが困難!言ってみただけ。

 

最近やったエロゲー

 

書くという試み

「書くとは、語ることを止め得ぬもののこだまとなることだ。_そして、それゆえに、私は、こだまとなるために、この語ることを止め得ぬものに何らかの方法で沈黙を課さねばならぬ。」モーリス・ブランショ『文学空間』

 

インターネットはポエムを書く場所であり、現実はポエムを実演する場所だと誰かが言っていた気がする。

攻略したエロゲ・読み終えた本・見たアニメの感想や、その日感じたことを文字にしたいと思います。狂ったように毎日更新するかもしれないし、しばらく放置してある日突然まとめて更新するかもしれない、自分の適当さがよくわかるブログになると思います。

「_この糞だめみたいに臭い世の中では、ほかのものはみんな不確かだけれど、母親の愛情だけはそうじゃない。お母さんは君をこの世に連れて来た人だし、最初に自分の体のなかに君をかかえてたわけだ。」ジェイムズ・ジョイス『若い芸術家の肖像』

 

とりあえず、よろしくお願いします。